カテゴリ:静子先生( 13 )


2015年 08月 07日

アンリ・ド・レニエ

50年近く前、パルムグレンを知っている人、その作品を弾いたひとは何人いたのだろうか。
舘野泉さんが、監修された楽譜が出回るまで、ヘルシンキの版などは、入手困難このうえない代物だった。

あるとき、同門の友人に楽譜を拝借した。
友人はじぶんがレッスンを受けた楽譜にさらに、こういうものもあるよ、と加えて貸してくれた。

パルムグレンの「鳥の歌」の楽譜の下隅に、静子先生の字でボードレール、レニヱ と書いてあった。

二人の詩人から、時代的な背景を読み取れ、ということなのだろうか。
そのことについては、先生とも友人とも話をしていない。

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レニエは好きで、意識して作品を探した。
近頃になって鴎外や荷風が翻訳していることを知った。

先生も愛読しておられたかもしれない。

レニエはモンフルールの生まれ。
ボードレールは、凋落の後、母親の別荘があったモンフレールを再三訪れている。

部屋にモンフルールの油絵がある。セーヌ河の河口にある港町なのだそうだ。

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近頃は、旅行をしたい・・とまでおもうようになった。海外はもう、充分堪能したつもりであったが、ブルターニュとモンフルールは潜在的によほど興味があるようで、部屋に絵を掛けて楽しんできた。

さて、静子先生の意図は何であったのか。こんど機会があれば、友人に聞いてみよう。
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by coppoumon | 2015-08-07 22:13 | 静子先生 | Comments(0)
2015年 01月 07日

ピエール・サンカン

二十歳になる前だったように思う。

レッスンに伺うと、スパニッシュの低いテーブルの前に演奏会のチラシが置かれていた。
前の方がレッスンを終えられ、「あなたは、シューマンのカーナバルを持っていったら良い・・」などとおっしゃっておられた。

前の方が帰られて、「演奏会と講習会があるのね。そのチラシのピエール・サンカンという人は、安川加寿子さんの同窓の方で、初来日のようです。
岩崎さんという私の古い生徒さんで、東京芸大の先生をしている人から知らせてきたの。岩崎さんの娘さんが、この方に習っておられたのね。演奏会のかたわら、レッスンを公開講座でなさるみたいです。お受けになったらと、お勧めしていたの」

そのとき、演奏会にも講座にも出席しなかったが、サンカン氏の作品にであったのは、そのあとのことである。

1950年代から70年代ごろまでに出版されたさまざまなフランスの楽譜を手に入れて、少しずつ譜読みをしていたが、初見で弾けそうなものは、積読状態で棚の中に入れたままであった。

「新しい曲を弾くときには、まず、自分が感動しなければなりません」そんなことをおっしゃった。
なんだか判らないような曲は、とりあえずパスして、いろんな曲を弾いたのだが、初心者から中級レヴェルの曲で、良いと思うものは多くなかった・・とそのときは感じた。

数十年経った。

11月になり、突っ込みっぱなしになっている楽譜を出して、弾いてみると、面白い曲がたくさんあり、それまでの自分のソルフェージュの能力の無さを恥じた。

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フランスの楽譜は大判が多い。
表紙の色も垢抜けしているが、紙質はそんなに良くないものもある。
サンカン氏のは、「小さなおてて」とでも訳すのだろうか。音楽は美しいが容易ではない。

練習曲集のような使い捨てられる類のものには、立派な紙を使うことは無い、という割り切った考え方なのだそうで、恐れ入る。

11月25日から1月5日にかけて、これだけの譜読みを楽しんだ。
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by coppoumon | 2015-01-07 18:09 | 静子先生 | Comments(0)
2014年 12月 10日

ノクターン

ショパンのノクターンを持っていったのをきっかけに、連続してショパンのノクターンを課題に頂いた。
同門下の同年代の先輩は、先生が横の小さなアップライトでお弾きになるのを聴きながら、どうしてあんなに音色が美しいのだろう・・と不思議だったという。
きっと、あのたくましい腕のせいだと。

それは8番のノクターンだったが、私は20歳上の方がレッスンを受けるのを傍で拝見する機会があって、そのほとんどを師が弾かれるのを聴くことが出来た。

1番から順に弾いていったのだが、2番のとき、これ、好きじゃないです・・と申し上げると「そう。人によって好き嫌いがありますね」と、私をたしなめようとはなさらなかった。

それで、弾かずに済んだ・・と思ったのだが、嫌いな曲こそ、人より上手に出来なくては・・と考えを改めて、次の週に持っていったら「おやおや。きらい、だといっていたのに、弾いてきたのね」と可笑しそうにおっしゃった。
大変恐い先生だ、と評判の先生だったが、朗らかな方だった。

晩年のノクターンには、ひどく難しいものが、ありますね。それは、ショパンのそのときの健康状態とか、精神状態とかがが、そう感じさせるのだとおもいます。
個人の日記を垣間見る感じで、あえて弾きたくない、と思うものもあります。

という総括をなさった。

付きっ切りでレッスンしてくださったためか、私にはあまり弾いてくださらなかった。

古いお弟子さんたちからは、次は、これをやりましょう・・と必ず弾いてくださって、それがすばらしく巧かった、と伺っているが、私には、一度だけ、ブラームスで、

「わたしが、ドイツ人に習っているときに、これこそが、ドイツのソナタだ、といって、得意になって(先生が)弾いていました」

と、冒頭の1ページ以上を弾いて下さった。

晩年、「わたし、ブラームスは嫌いです」「ヘンデルヴァリエーションとフーガ、あれは大変良い曲です」ともおっしゃったことが、併せておもいだされる。
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by coppoumon | 2014-12-10 10:12 | 静子先生 | Comments(0)
2014年 02月 09日

咖啡ブレイク

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夢でピアノを弾いている。

弾いている・・のではなくて、弾こうと、シューマンのカーナヴァル、ショパンのファンタジーの楽譜を出して
ピアノに向かう。

暗譜で謝肉祭の冒頭を弾き始めた。夢はそこまではカラーだった。もっとも、鍵盤の白黒しか見てないので、あてにはならない。
どこまでも正確に弾けるので退屈し始めた頃、静子先生が、「シューマンは弾きこめば弾きこむ程、スケールが小さくなってしまいますね。反対にブラームスは弾きこめば弾き込むほどスケールが大きくなって立派な音楽に聞こえます」と仰った言葉を思い出した。

静子先生は、弾いて行き詰まると、よく夢を見たのだそうだ。
「夢の中で、友達がその曲を弾いているのね。そこで、ははあ、そういうふうに弾けば良いのか、とわかるのです」と、微笑んでおられた。

なんだか、随分便利なのだなあ・・と内心で思ったことだ。

夢の中ではショパンのファンタジーは弾かなかった。
なぜショパンのファンタジーだったのだろう。

そろそろ出してさらいなさい、ということなのだろうか。
こうも仰った。

あなたが、この曲をお弟子さんに教えるということは、無いと思います。
また40歳すぎて、さらってみたらよいです。

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手元には、静子先生が貸してくださった、ご自身の勉強されたウルシュタイン社の、大判の楽譜のコピーがある。
クロイツアーに習った時のものとレフ・オボーリンのレッスンの時の書き込みが、色を違えて記されていた。

コピー機が大変珍しかった時代で、コピー中に用紙が焦げたりしたことを覚えている。
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by coppoumon | 2014-02-09 20:39 | 静子先生 | Comments(0)
2011年 10月 02日

ピアノ

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調律をお願いした。
ピッチは441ヘルツ。
めったにないことだが古い方のピアノを調律中に弦が切れた。

たまたま代わりの弦を持って来ておられなかったので、調律は先延ばしになった。
切れるかもしれない・・とかなり用心していたのですけど・・と調律師がおっしゃる。
ヤマハだがラインを外れて製作されて、高音部も指定の番手より太いレスローのワイヤーが張られていた。

子供の頃習っていた先生は昭和6年生まれ、職業軍人のお家のお坊っちゃまだったようで、お祖母さんが自宅でピアノの手ほどきをなさって練習にも付き合っておられたらしい。
軍港を転々とする少年時代、チェルニー30番を習っていた頃の先生は、体を悪くされて戦時中のことで、レントゲン技師になっておられたピアニストだったそうである。

17番ト長調の装飾音の弾き方の説明があって、装飾音を先に出す奏法と、拍の頭で弾くのと、両方さらってきなさい、と宿題が出されたときに、「片方やればいい」と口ごたえされて、一箇月間出入り禁止、レッスンをしていただけなかったのだそうだ。

・・中学生だった私に、そんな話をなつかしそうになさった。

なるほど、一方をさらえば、もう一つの方は頭で理解出来ているわけだからよさそうなものだけれど、巧みに弾き分けができないといけないので、先生も生徒の口答えにムッとなさったのだろう。

かなり反省なさったようだ。
この先生はアカデミックな先生で、和声学、西洋音楽史も中学生の頃から教えていただいた。
いずれ、この和声学の本を終えて、ヒンデミットの和声学まで行きましょう、とも言っておられた。

今まで一日でもピアノのレッスンを受けた先生を数えてみると、男の先生が6人、女の先生が6人、その中で強く影響を受けたのは、この男の先生と、このブログにある静子先生一人である。

私は、このお二人には教えていただくことに付いていくだけで必死で、口答えなど思いもよらなかったし、いま、当時の録音を聞いても相当出来のひどいものだと思うし、どうしてそういう生徒を静子先生は教えようと判断なさったのだろうか。と思う。

良い音楽性を持っている・・と周囲にはおっしゃったそうだ。本当によく勉強してくる、とも。

静子先生は、「地方にいて、これだけのレヴェルまで習って来れた、ということは、あなたを教えた先生は、とても良い先生です。まず、地方ではここまでの上達は考えられないです」と私にはおっしゃった。

言われても、私はのほほんとしていて、深く考えたりしなかった。

今は、中の下です。でも、一年後には中の上にはなっているかもしれない・・と真顔で仰ったとき、そうだろう、と納得していたのだった。

近頃バッハの平均律の分析をしていて、初めに習った先生の実力を垣間見ることがあり、粛然とする。

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新しい方のピアノはフレームの設計が変わって、ベルがたくさんついている。
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by coppoumon | 2011-10-02 21:34 | 静子先生 | Comments(0)
2009年 11月 10日

静子先生

レッスンの日が、雨だった、という記憶がほとんどない。
たまには雨が降ったのだろう。
お玄関にタオルが重ねてあって、足元に、お使いください、と書いてあったから。

先生のレッスンは超満員だ、と言っておられたが、たまに私の後の人がお休みになったりしたら、いろんな話をしてくださった。

・・・・・私は、運命論者なのね。何か、こう、と決まっているものがあるように思うのです。

子供のころに、私はグリーンのドレスを来て、ピアニストとしてステージに立っている自分の姿を見たのです。
ああ、自分はピアニストになるのだ、と子供のころから知っていました。

結婚式のとき、学生たちが、ローエングリンを歌ってくれましたが、そのとき、5年だなあ、となんとなく思ったの。
私の霊感は当たるのだけれど、それも、後になって合点がいった、やっぱりそうだったという、そういうものみたいです。
それで、私が結婚式のオルガンを弾くと、なぜか5年で、ご主人が亡くなってしまわれるのね。初めはぐうぜんだろうとおもったのだけど、必ずそうなるので、結婚行進曲は弾かないことにしました。

葬送行進曲も、そういうことがあってね。演奏会でショパンのソナタの2番を弾くと、必ず親戚が死ぬのね。
それも、何度かそういうことがあったので、クロイツアーにレッスンを受けているときにも、この曲だけは絶対弾かないと、いいました。

・・・・・クロイツアーも、レッスンで展覧会の絵の中の「キエフの大門」のところで、「私は、キエフで酷い迫害を受けたのだ」とおっしゃって、絶対弾こうとなさらなかった。ほんとうに、かわいそうでなりませんでした。


あるとき、いつものようにレッスンの前に「よろしくお願いします」とご挨拶をしたら、「私、とても出来の悪いお弟子さんが、ほんとうに上手にチャイコフスキーのピアノコンチェルトを弾いている夢をみました」と可笑しそうにおっしゃった。

2楽章の途中が、すごく、あわせるのが(オケと)難しいでしょう。タラタラッ・タラタラッ・というとこね。あれは理屈ではなくて、音楽性なのです。無い人には、何を言っても合わない。それに三楽章の最後の4ページ、何の意味もないのにユニゾンで、走らないといけないのね・・・
私は、クロイツアーからここはバラライカだ、とか、ロシア民謡だとか習いました。

あのあと、チャイコフスキーをやりましょう、とおっしゃったけれど、

あれって、出来の悪いお弟子さんって、まさか・・私なのでしょうか。

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大きな版画は静子先生のアップライトの上に飾ってあったもので、先生から頂いたものだ。

初めてこの「プラハの城」を拝見したとき、「まっすぐ定規でも当てたのかと思うような線ばかりですね。長いことかかったのか、建築中にゴシックだったのがオスマントルコの影響を受けたりしてるのね」
とおっしゃった。

1984年にこの絵の場所に立ったので、そのときのことは、また、何かの折に書きたい。
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by coppoumon | 2009-11-10 21:27 | 静子先生 | Comments(0)
2009年 10月 02日

秋の夜長

寝室にもアップライトピアノを入れて、そのピアノの音の出方が好きなので、毎日弾いている。とおっしゃった。

でもね。
古くて、毎日弾いてやらないとだめなのね。
外国旅行に行って、帰ってきてみると、その間誰も触らないので、鈍くなってしまい、本当にもう、ただの古いピアノです。
いよいよ、もう、ついにだめだ、とおもって、この間いろんなものを録音して、楽器屋に「要らないか」といったら飛んできました。

笑いながらこんなことをおっしゃった。

どういう風にでも音がでる、とおっしゃったそのピアノはどんな音だったのだろう。19歳かはたちの頃の思い出話だ。


我が家にも、120センチの高さの、小さなアップライトがある。
これは、夜にさらったり、譜面を読んだり、楽譜を書いたりするのに使う。
アップライトとしては4代目。

Sというメーカーのピアノを買ったが、入れてみるとどうも、音がいまひとつ汚い。何ゆえかケースにヒビが入っていたので、それを理由に違うメーカーに取り替えてもらった。
その直後、メイスン・アンド・ハムリンのピアノが出て、口惜しい思いをしたが、縁があって、グロトリアンシュタインヴィッヒがやってきた。

とことんだめになるまで付き合ってやろうと思う、このピアノで、静子先生が弾かれたいろんなコンチェルトの第二ピアノのパートを弾いてみる。
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私が得意なのは、コンチェルトの伴奏なのです、とおっしゃったが、何をどれほど勉強したかわからないくらい勉強したけれど、全部忘れました。
ショパンとモーツアルトが一番良いです。

と晩年は笑っておられた。
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by coppoumon | 2009-10-02 22:11 | 静子先生 | Comments(0)
2009年 01月 14日

京都大学交響楽団第184回定期演奏会

京大のオケというと、電車から見た近衛通りの、古い木造の建物が目に浮かぶ。
その建物も、いつだったか冬の定期演奏会直前に火災で無くなり、京響などから楽器を借りて定期を乗り切る、というアクシデントを思い出す。

京大のオケは抜群に上手い。私の一番の思い出はショスタコーヴィッチの10番であるが、今年は、ヨハン・シュトラウス2世のジプシー男爵序曲、ラヴェルのラ・ヴァルス、ブラームスの2番シンフォニー、アンコールにブラームスの6番ハンガリーダンス、と、とりわけ面白いプログラムだった。

ラヴェルも、ブラームスも、ヨハン・シュトラウスを好きだった。

そこが、キーワードになって、一つの演奏会をプログラミングする。
キーワードを持った演奏会は面白い。
面白がっていたが、去年のフルーティストは、いなかった。その横にいた金のフルートを持った人もいなかった。そうして、去年は2番手だったかも知れない人が、トップを吹いていた。
層の厚さをおもう。

オーボエは、これまで聞いた中で、良い意味で一番なまめかしい音だった。
ラヴェルのオーケストレーションは緻密で聞くものには凄い期待感を抱かせるが、ブラームスもよかった。

30年以上も前、大フィルがヨーロッパに遠征した時ブラームスを持っていた。直前の大阪での演奏は、ピアノの師の永井静子先生が、「遠征前で、皆がフレーズの隅々まで、丁寧に弾き込んであって、大変感動しました」とおっしゃったことを覚えている。

静子先生の弟さんが朝比奈隆氏と同級生だったそうで、よく自宅に遊びにこられていて、静子先生のピアノの練習の様子をいつも見ておられて、音楽で身を立てられる決心をなさった、と伺った。
氏は、哲学科に入りなおして、音楽美学で論文を書いて出られたそうだ。

朝比奈隆氏も、この京大のオケで活躍したのだなあ・・といまさらながらに思う。
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by coppoumon | 2009-01-14 21:08 | 静子先生 | Comments(4)
2007年 10月 30日

千両その1

私のピアノの先生は熱心なメソジストの家庭でお育ちになられた6人兄弟のご長女とお伺いした。

子供の頃から教会のオルガンで奏楽をなさっておられ、後にはピアニストとして大活躍をなさるのだが、家では毎夕、食事前に賛美歌を四部合唱で歌いお祈りをした、と。
弟たちに、楽譜のよみかたを教えて、そのうち、メロディを聞くと、バスをつけることができるようにもなりました。
讃美歌の本は500曲ほどですが、全部歌えます、とおっしゃった。


その当時は遡って考えると、ラジオすらなかった時代の話だ。

芦屋の大原町にあった先生のお宅の玄関を上がった部屋には、天井までのガラスのケースにオルガンの楽譜が入って、禁帯出と、書いてあったがそれは、オルガンの師でもあり、義父でもあられた、私の通った学校の学長の形見だということで、「自由に持ち出して、弾いて御覧なさい」と楽譜棚の中を触らせていただけたことは、幸運だった。

幸運の一つは、人の一生で、どれくらいの量の勉強が出来るか、を、目で確認できたことであり、さらに、入手できそうにもない貴重な楽譜を持って帰って、音を出して確認できたことである。


振り返ってみても九州から、当時教籍を移した関西での教会の音楽の貧しさは書くにも忍びなく、教会には全く手入れされていない狂いかけたリードオルガンがあるだけで、備え付けのオルガンの楽譜すらないような有様だった。

賛美歌を楽譜どおりにすら弾けないようなところに奏楽の楽譜を望むべくもないが、そこに長く留まり、オルガンを続けたのは、ここまで、教会音楽をないがしろにされているところを、捨てては置けなかったし、他の宗教に対してのプライドというものもあったのだ。

その教会には30年居たが、信徒は緩やかに流れ、出入りしながら移動をして10年くらいで入れ替わっていくことも分った。

牧師が4人代わり、30年たったところで、私は一つのマイルストーンを置いた。

私にピアノを習っていた信徒のお子さんが2人、礼拝で充分弾けるところまで育ったので、
私が持ち込んだ楽器をその中の一人に980円で譲り、使っていたベンチ一杯の楽譜は全て処分して、私はそこを出ることにしたのである。


10年も前の話である。
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by coppoumon | 2007-10-30 10:16 | 静子先生 | Comments(0)
2007年 10月 11日

着地

19歳のころ、表向きは学校の先生だったジャズメンに、付きっ切りでジャズを習った。
ジャズを習ったというより、音楽家の基礎訓練の補習をしていただいたようなものだ。

あんなあ、拍を取るのに、前突きと後着きとタイプが二つあるねん。
拍の直前に落ちるやつ、拍の後で落ちるやつ。

前突きのヤツは、まだ、ましやねんけど、後着きのヤツは合わせても(アンサンブルしても)あわんわな。
遅れるヤツはどうにもならんねん。そういうヤツはままごとしといたらええ。
まだ、走るやつのほうが、訓練すればピタッと合うようになるから、見込みがあるねん。

なんぼ曲が早うても、小節の中をオフビート、オフビートでたっぷりとる感覚がいるねん。指は良う回るんやさかいあわててジャンプせんことや。

音楽をやる上で「よごれ」がいちばんあかんねん。たまにおるで、「よごれ」。
いちばんええのは、そんなヤツの音楽は聞かんこっちゃ。
この中学の先生の師は、伊達純先生。


ジャズから離れて10年以上経って、永井静子先生のピアノのレッスンで、ラヴェルの何かか、ガーシュインのプレリュードを持って来なさい、といわれて、先生が口ずさんだメロディーにびっくりしてしまった。
テンポのノリがとても日本人と思えなかったのだ。

回りまわって、古い門下生の方に聞くところによれば、GHQの命令で、週3回の演奏と、婦人将校のための学校でピアノを教えるように言われて、そこで教えながらジャズを習ったということだった。

ある日、先生が、私にジャズの話を始めた。
これが、デキシー、これがクールジャズ、これはホットジャズ、これはモダン。上手さに舌を巻いた。

テンポにはクラッシックもジャズもないのだ。そこにあるのは正確な刻み。

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by coppoumon | 2007-10-11 00:11 | 静子先生 | Comments(4)