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カテゴリ:郷里( 56 )


2006年 08月 14日

残照

私が対馬を出て、帰らなかったことで、失ったものも大きい。

引き換えに何か得たものはあるのか、と自問するまでもなく手に入れた自由が大きかったから
対馬に帰らなかったのだ。

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この古い絵葉書は、厳原の港に入ったときに一層目立った立亀の巨岩である。
写真は多分江戸期の様子を残しているのではないか。
いまでは全く想像がつかないが、桟橋という名前が残るように、ここから桟橋が延びた時期があったのかもしれない。

江戸中期以降この岩の裏に焼き物のための窯が作られ、藩の御用のものが焼かれ、民に払い下げられた。
記録では何度かの光芒があった。民の要請があったとき、通信使が入るので、石垣は見目の良いように積み、定期的に川ざらえをするようにと、条件を出している。

手許に一つ白磁のお茶碗と、皿の陶片があり、今回、作家の方にお願いして、陶片から皿のイメージを復元してもらった。
安南風にしてもらったのは私の趣味で、オリジナルではない。

福の字体は能く臨書してくださって、扇の骨の模様もそのまま写してくださった。
製作が非常に難しかった、と言われた。サイズは三寸。11個しか取れなかったそうだ。

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盛り付けられたものを食べ終えると、福の字が出てくる楽しさ。
お城で使われたものは、それなりの格を持って製作されたと言うことがわかって良い勉強になった。

by coppoumon | 2006-08-14 23:12 | 郷里 | Comments(2)
2006年 07月 29日

ここに昭和35年に町の広報に掲載された写真がある。
勝手に載せても良いのかな?ま、郷土愛と言う事で大目に見ていただいて、今じゃ、全く違った光景なので写真を撮る気にもならないが、なぜ江戸時代からの、この石橋群を残そうとしなかったのだろう、と不思議である。
しかし、この写真が上がったとき既に、川幅が狭くなり東川端の柳は伐られ、新しく石垣が築かれて、石段伝いに川に降りると言う事は、出来なくなっていた。
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さらに橋は全てコンリート製に、もっと悪い事は川の両岸、川底ともコンクリートで固められていたが、最近また再工事で、川底に穴を開けたと。
石橋は叩き割られたのだろうか。痛ましい。


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伏見街道に残された橋。
景観は共有するもの。

by coppoumon | 2006-07-29 09:07 | 郷里 | Comments(2)
2006年 07月 20日

厳原・対馬へ(8)

こんなところにお屋敷が・・と外からはなかなか見つけにくいところに350年前に殿様から頂いた屋敷というのがあって、私の両親ほどのご夫妻が静かに暮らしておられる。

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今回は式台を上がった所の部屋の絵を写真に撮らせていただいた。

私が大好きな絵である。畔と霞は読めたが、誰の絵なのだろう。

私達も歳をとりまして、いつまで今の暮らしを続けていけるやら心もとないのでございます、と仰る。
おじ様の方は殿様の直系で十三世紀までルーツが在り、おば様のほうは秀吉の朝鮮征伐に近江から参戦した軍学家であって、儒学家として召抱えられていた。
子供の頃はこんな家々の方ばかりが、気難しい事もなくたくさんいらしたが、皆、島外にでられて、いろんな言葉や、慣わしが踏襲されなくなってしまった。

この絵も数百年間、ここの屋敷に来た人を出迎え、見続けてきたのだろうか。

しかし、この写真の足元で膝を折り手を付いて私を見送ろうとなさるお二人にためらいながらシャッターを切ったら絵がゆがんでしまった。

来年お邪魔して、大きなカメラできちんと撮りたい。

by coppoumon | 2006-07-20 21:29 | 郷里 | Comments(4)
2006年 07月 19日

まだ終わらない対馬・厳原へ(7)

子供の頃住んだ家は20年ほど前に火災にあったので残っていない。
そのあとに住んだ家は庭石だけが近所のお寺に運ばれて更地になった。

この30坪ほどの青い屋根はわが家の倉庫であった。いつ処分をしたか私には分からないが、小学校2年生くらいまではここで遊んでいたのだ。私達は浜の倉庫と呼んでいたが、50年前の姿がそっくり残っていた。
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浜のすぐ近くであったので、父の兄や従兄たちと魚釣りに出かけるとここで休息をとった。
倉庫の北隣は松雪製パンというパン屋さんで同級生がいてよく遊んだが早い時期に廃業された。
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松雪製パンの北側の,隣家が建て替えられた事から姿を見せていた立派な石垣。
江戸期に、火災の際に浜風から類焼を防ぐために築かれた石垣の一部だ。

倉庫の向かいも南側も道路の反対側は茶屋町。茶屋町を抜けて山に上がると菩提寺がある。
ここにも小さな倉庫がある。
お住持の話では「これはお宅の倉庫ですぞ。お父さんがね、お寺に、と、移築してくださったです」

本来広島に一族の墓はあるが、父はよほどこの島が気に入っていたに違いない。
アマノジャクな私は父の遺骨を広島に持っていこうか・・などと思ってはみるが、いやいや、これ以上遺骨の世話を焼く気はない。

この倉庫の前の細い道を「浜の小路」といった。

by coppoumon | 2006-07-19 16:09 | 郷里 | Comments(0)
2006年 07月 15日

厳原・対馬へ(6)

今回の旅行で、一番初めに諦めたのはカメラ機材一式である。
口先では晴れ男を名乗ってはいるが、実際雨に遭うことを考えるとどうしても大きなカメラを持っていくことは敬遠してしまうのだ。
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メモ代わりに使用するコンパクトカメラで、撮りたいものが一つあった。
今回、対馬のキリシタンが残した痕跡を確認する事も一つの目的で、もう一度じっくり見たい地蔵があったのだ。

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対馬の地蔵は十字架の杖を持っているものが多い事には小学生の頃から気付いていた。
あまりの多さにそれは、こういうものだ、地域性なのだと思い込まされていた。
島を出てから、同様のものがキリシタンの物と言われている事を知ったのだ。
写真中央の左側地蔵の台座は蓮の葉ではなく、棕櫚の葉である。そして地蔵に耳が無い。
お堂の奥に祭られているためにこれ以上どうする事も出来ないのだが、こういう地蔵があることをしっかりと認識しておかねばならない。

by coppoumon | 2006-07-15 22:06 | 郷里 | Comments(4)
2006年 07月 14日

仁位・対馬へ(5)

三根を辞す時に、仁位を回るという事になった。
対馬は元来一つの島であったが、戦前、海軍により大規模な掘削が行われ上下に別れたのである。
仁位にいこうとすれば、下島の樽ヶ浜(たるがはま)まで行き、渡海船で対岸の港に行くという方法が一番確実とされていた。まず、日帰りは望めない地域であった。
「それがね、今じゃ何のことは無い、車で走れば直ぐ其処タイ」と案内人は申される。

高校生の時の秀才が、仁位の出身だった。ずっと一番と二番を争っていたが、二番手はどうしても一番を超えられなかった。
仁位というとそんな二人の秀才の思い出がある。
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厳原で開業医をなさっておられた方が、仁位で隠居されておられるという事だったが、深く静かな家並みからは人の気配が伺えない。お留守のようだ。
後にその父上も医師であったと知らされた。学校の先生にも仁位先生がおられた。

ここには郷士が10家ほどあった。
その1軒のお宅の前を通ると、手水鉢が見えたのでシャッターを切った。
厳原でもそうだったように、門の内側のこの手水鉢は馬をもてなすためのものであったに違いない。
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大阪では専門書をあつかう馴染みの本屋に仁位さんと言う方がいた。
仁位さん、九州ですか? とたずねると、ええ、佐賀(さが)です、という。
ああ、じゃあ、田代の方でしょう、というと、目を丸くしていた。田代は対馬藩の領地だったのだ。
田代は対馬藩の交易でもたらす薬種で寄応丸を製造し、辺りいったいは薬街道とよばれた。
田代の仁位さんは、対馬の仁位を知っているのだろうか。

by coppoumon | 2006-07-14 23:48 | 郷里 | Comments(2)
2006年 07月 13日

三根・対馬へ(4)

4年前、佐賀(さか)から三根(みね)に差し掛かったところで縄文期の集落跡が発見された。
地形的に、住まうにも敵からの守りにもふさわしい条件を備えた場所で、300年間変わらない家並みがあり、今回もそれを楽しみに車窓の外に目を凝らしていたが、記憶にある家々が無い。
5軒の内、3軒が門と母屋を建て替え、1軒は放置され、一番大きな1軒は母屋を建て替えていた。
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このお宅は1755年・宝暦5年10月以降、どのようなお役目を仰せ付けられても、代々御馬廻り格とされた、城下にあれば200石ほどの上級武士である。

不幸にして厳原では大きな武家門のある家はなくなってしまい、この様に田舎に来ると城下町だった厳原の面影を感じる事が出来る。

建て替えられた別のお宅の方とお話をした。「もう350年も経ってですね、古すぎてどうにもならんとで、ございました。お隣も川の向うに新しく家を建てられてここは空き家にしておられるとでございます」

城下の武士は廃藩置県で禄を失い、早い時期に島をでたが、農村部に住む士族は禄ではなく土地を与えられていたので廃藩になっても土地の所有権を認められた。それでこうやって明治以後も先祖伝来の地を離れずに済んだのである。

三根には、血の繋がらない親類がいる。しかも高校時代のクラスメートだった。彼の従妹が私のふた従妹だったのだ。だからといって、彼と更に親密になるわけでもなく、賀状だけ付き合いがある。

母の代は行き来があったのだそうだ。

うちの家の船で三根に遊びに行ったり、三根からもポンポン船でわが家に泊まりに来たり、山が険しすぎて陸路は時間がかかるので、船があれば船で行くのがいちばん手っ取り早かった、と母は言う。
「何しに行ったの?」「魚釣り、何の娯楽があるのよ」
のんびりした良い時代だったと。

by coppoumon | 2006-07-13 21:21 | 郷里 | Comments(3)
2006年 07月 12日

捨石・対馬へ(3)

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子供の頃、対馬は水成岩より成る、と書いてあったので、子どもながらに島が波に洗われて消滅する日が来る事を思っていたがそんなものではないらしく、7~9種類の岩石が捻じり飴のようなストライプ模様を描いて形成されているのだと、島を離れて知った。

時々、殿様の隠居所として建てられ、藩の学校となった日新館にあった庭園を思い出す。
現在も石塔や数基の燈籠、庭石がまだ残されてはいるが、屋根から落ちる雨を集めて、池に流し雨天を楽しみ、巨石で荒磯や岩山を表意したり、7,8本の赤松が全体を柔らかく引き締めていた贅沢な空間をどれほどの人が記憶しているだろう。

京都の詩仙堂に日新館の庭園を思わせる箇所や共通する技法がいくつかあり、懐かしい。

厳原の武家屋敷の奥庭はどこも2、30坪くらいなのだろうか。そこに蓬莱山や澤溜まりなどを設けて様々な遊びが面白かったが、かなりの屋敷が解かれ庭も消滅した。

捨てられずにこうやって居酒屋の玄関に景色として置かれた石は幸せというもの。

by coppoumon | 2006-07-12 23:55 | 郷里 | Comments(2)
2006年 07月 12日

7月6日 対馬へ(2)


飛行機が5分早く到着したために迎えに来てくださるはずの退職司祭様の姿が無かった。
これはチャンス、このままタクシーでドライヴして司祭様の家に行こうかと迷っていると約束の時間に車が出現して、佐賀(さか)という町へ。
佐賀(さか)は初めてで、私が高校生の頃ピアノを教えていたお嬢ちゃんが嫁いでいるお寺があるというので、会っておこうと思ったのである。

佐賀(さか)は歴史的に古い町で、藩主一族の1300年代の宝筐印塔が14基残されており、百済仏や、梵鐘が残っていると聞いていた町なのだ。

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宝筐印塔は福井県の日引石であることは知られていたが、家の庭に転がっていた15センチほどの立方形の石も、日引石のように思えて一度見ておきたかったのだ。

高校時代、佐賀(さか)から来て下宿していた友人が城下町の厳原に住み、田舎の親類も無いままに厳原以外知らなかった私に、色々な地名と呼び方を教えてくれた。「佐賀(さか)の近くには賀佐(かさ)という所もあるよ」

シンメトリーなんだなあ、と感心したその佐賀と賀佐の間の道を司祭様の車は私の住んでいた町へと急いだ。
メイトランド夫妻がアフタヌーン・ティを用意して待っておられたからである。

by coppoumon | 2006-07-12 17:18 | 郷里 | Comments(4)
2006年 07月 12日

7月9日 対馬へ(1)

101年目のミサのオルガンを弾きます、と約束していたので、早くから飛行機のティケットを予約しておいた。
ANA MILEAGE CLUB のカードが3年前から見つからない。
飛行機を利用しているのにマイルがたまってくれない。参るなあ・・とむきになって探していたら大切な箱の中から出てきた。苦々しいやら馬鹿馬鹿しいやら。

去年、空港に着いたのがぎりぎりだったので今年は便を一つ遅らせた。たっぷり時間があるなあ、、余裕だ、とロビーを睥睨していたら、私と同じ名前をアナウンスしている。おお、同姓同名がこんなところに居るのか、と半ば感動していたら、私のことだった。

何ですか?
「対馬上空は霧のため着陸できない恐れがあると連絡がございました。それでも大阪を発たれますか、引き返されますか?」
去年も、同じことを言われましたよ、昼過ぎには霧も晴れると思います。と返事して博多で乗り換えた。

博多から対馬への何便かはジェット機が廃止されてプロペラ機になったと聞いていたが、出発ロビーの端からバスに乗って着いた先はプロペラ機。
乗客は11人。ジェット機では採算割れだと、納得がいく。

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台風3号が北上しているというのに薄日が差し始めた対馬の上空。
空港の手前の北側の棚は魚の豊富なところで、ここで揚がったものを殿様の膳に上げていた、と古文書に出てくる。

飛行機は予定より10分遅れて離陸し、気圧が安定していて予定より5分早く空港に着いた。

by coppoumon | 2006-07-12 15:29 | 郷里 | Comments(3)